大内義隆終焉の地・大寧寺に行ってきた。



山口県長門市にある大寧寺に行ってきましたよ。

1551年、周防長門を拠点に大きな覇を広げた戦国大名・大内義隆が、
陶晴賢ら家臣団に追い詰められて自刃し、厳島の戦いの原因となった「大寧寺の変」の舞台です。
このような山間の中にある寺院なんですねえ。


大寧寺境内。「大内義隆こう終焉之地」の石碑が建っていますね。正面に見えるのが本堂。

またこの後ろ側には大寧寺川が流れていて、山口県三奇橋の一つに数えられる盤石橋が架かっています。
陶晴賢らの反乱軍により西の京・山口を追われた大内義隆は、
姉婿である津和野城の吉見正頼を頼ろうと日本海へ逃げのびるも、仙崎港で暴風雨のため渡海できず、
無念にも引き換えしてこの大寧寺に追い込まれたのです。

大寧寺川のそばにある、兜掛け石。
大寧寺まで命からがら逃げ延びた大内義隆が、疲労困憊で自分の姿を水面に映そうとした際に、
ずっと身に着けていた兜を脱いでこの石に掛けた、と言われています。


そしてその横にある古井戸のような、通称「姿見の池」。

逃げ惑って乱れた鬢を整えようと、大内義隆は兜を脱いで石に掛け、この池を覗きこみました。
ところが、その水面には風景は映っているのに自分の顔だけが映っていなかった。
それで大内義隆は「自分の命運は、もう尽きたのだ」と観念し、この寺で最期を迎えることを覚悟したのです。

本堂の裏手には大内義隆が眠る墓がありますが、そこに向かう石の道の名は「冷泉坂」。
多くの家臣が裏切って大内義隆を追い詰める中、最後まで義隆を守った武将・冷泉隆豊の名を取っています。
冷泉隆豊は大内義隆の自害の際に解釈を務めた後、突入してくる陶軍を斬り伏せながら、
自らの腹を斬り裂いてはらわたを敵兵に投げつけて最期を迎えたそうです。
冷泉隆豊が経文に書きつけたと言われる辞世の句は、
「見よや立つ 煙も雲も 半天(なかぞら)に さそいし風の 音も残らず」。


冷泉坂を登ったところにある、「史蹟大内義隆主従之墓所」。

正面には大寧寺で自害した大内義隆、その右には大内義隆の子でこの事変で命を落とした大内義尊の墓。
またその右には冷泉隆豊、黒川隆像(宗像氏男)、岡部隆景、天野隆良、大田隆道、岡屋隆秀、
左には陶隆康、陶隆弘、貫隆仲、杉興運、相良武任、平賀隆保、佐波隆連など、
大寧寺の変で命を失った大内義隆に付き従った重臣たちの墓碑もあります。
またその横にも、この事変に巻き込まれた三条公頼、二条尹房などの公家衆の墓もあります。
大寧寺で腹を召された大内義隆の辞世の句は、
「討つ人も 討たるる人も もろともに 如露亦如電 応作如是観」
で、辞世の句としてはとても秀逸だと評価する歴史マニアも多くいます。
というわけで、中国地方の戦国時代の覇権を大きく揺るがした「大寧寺の変」の舞台になった
大寧寺に初めて行きましたが、いやあいろいろと感慨深いものがあります。
またぜひ、行ってみたい場所でした。

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