[伊豆篇] 韮山の江川邸に行ってきた。


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韮山反射炉に行った後、そこから車で10分ほどの場所にある旧江川邸に行ってきました。旧江川邸は、代々韮山代官を世襲し、韮山反射炉を作った江川英龍などを輩出した江川氏の邸宅であり、韮山代官所でもあった施設です。

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江川邸の正面玄関。右に見える木は北条早雲お手植えの樹木らしいです。人気ドラマ「JIN -仁-」のロケにも使われた場所です。

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江川氏は鎌倉時代から続く名門で、戦国時代は小田原の北条氏の支配下にあったものの、早々と小田原征伐の前に、しかも豊臣秀吉ではなく徳川家康に鞍替えしたことから、江戸幕府が始まると関ヶ原戦後に寝返った外様大名たちと違って大きく信頼され、韮山代官としてその支配を任されました。

代官とは藩を統治する大名とは違って幕府直轄地を幕府の代わりに治める役職のため、この辺りは大名はおらず代官の江川氏が支配していたことになります。その支配地は伊豆国、駿河国(静岡県)、相模国(神奈川県)、さらには遠く武蔵国多摩地方(東京都西部)や甲斐国(山梨県)まで及んでいたとされ、その石高は軽く10万石を超え、その辺の大名よりも大きな支配力だったと言えます。

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江川邸の土間。当時の建築術でこれだけの広い空間を作り出すのはすごい技術です。

ここからは靴を脱いで邸内に上がることができます。江川英龍をはじめ江川氏の資料がいろいろと展示されています。

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支配地である下田などの伊豆沿岸が外国船の脅威にさらされると感じた第36代当主の江川英龍は、自ら長崎に出向いて西洋砲術の第一人者だった高島秋帆に弟子入りし、そのノウハウを持ち帰ってここに韮山塾を開き、東日本にいた志士たちに砲術を始動しました。

そこには佐久間象山、大山巌、桂小五郎、橋本左内、黒田清隆など、のちに幕末・明治維新を彩る数々の英傑たちが集って江川英龍から教えを受けました。ここまでできるスーパー代官は、歴史上なかなかいないでしょう。

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江川邸の蔵。庇の部分はよく見たらよくある瓦ではなく、一枚の石でできていることが分かります。

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「パン祖江川坦庵先生邸」の碑。坦庵(たんなん)というのは江川英龍の号ですが、江川英龍は日本で初めてパンを焼いた人物ということで「パン祖」と呼ばれています。

パンというのは食パンやフランスパンではなく、軍隊の携帯食としての乾パン。異国船の到来から国を守る重要性を予感していた江川英龍は、韮山反射炉を作って大砲を製造し、品川台場(現在のお台場)を江戸湾に築いたりし、その一方で地域の農民や町民たちに武芸の重要性を説き、「右向け右」「回れ右」といった現代の自衛隊や体育授業でも使われる軍隊命令を発明し、その一環として堅パンを作ったのです。

江川英龍の韮山代官としての支配地は武蔵国多摩地方に及んでいたので、多摩の百姓や町民らも自ら武芸を学んで農兵隊を作り、実践重視の天然理心流が広まり、その多摩の土壌から新選組が生まれたというわけです。「歴史発想源/武心の源流・幕末日野篇」でも書きましたが、新選組のルーツをたどっていくと江川英龍に行き着くのです。

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出口側にある江川邸裏門。その隣りには韮山郷土史料館が併設されています。

幕末史に疎い私が江川英龍の名を初めて知ったのは、東京都墨田区の両国を歩いていた時に緑町公園の横に「江川太郎左衛門終焉の地」と書かれた小さな碑が立っていたのを見つけた時。それから『勝海舟が絶賛し、福沢諭吉も憧れた 幕末の知らせざる巨人・江川英龍』という本を読んで「こんな天才がいたのか」と読み入ってしまい、近いうちに韮山に行きたいなと思っていたのです。

ちなみに、それからいろいろと江川英龍関連の本を読んだのですが、初めて知る人が最も分かりやすく短く読めるので個人的にオススメなのは、公認会計士の山田真哉先生が書かれた『山田真哉のご当地産業ルーツの旅 駿河・遠江・伊豆国編 なぜ静岡県には統一感がないのか?』という電子書籍です。

 


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