[鹿児島篇] 「時標」の7つの場面を巡ってみた。


九州新幹線も泊まる鹿児島市内の交通の起点・鹿児島中央駅と、
市内随一の繁華街・天文館は1.5kmぐらい離れていて、徒歩では微妙に遠い距離。
でも最近、「時標」(ときしるべ)といういくつかの銅像が建造され、
それらを辿れば薩摩の歴史が分かるという、「回遊式紙芝居」みたいなものができ、
すごく素晴らしい取り組みだと思うので、実際に全部巡ってみましたー。


まず1つめは、加治屋町の交差点にある「イギリス艦、鹿児島湾に現る」。

薩英戦争を前にしてイギリス艦の出現を見に駆け付けようとしている3人の若者は、
左から大山巌、西郷従道、そして山本権兵衛。
ちなみに案内板は、覗き込むと紙芝居のようなものが見える仕組みになっています。


2つめは高見馬場交差点に建つ「樺山、黒田、大いに語る」。

井伊直弼の大老就任、徳川将軍家の継嗣問題などで幕政が揺れる中、
江戸から遠く離れた薩摩藩でも、若き志士たちが国家の将来について論じていました。
左は後に初代台湾総督になる樺山資紀、右は後に第2代内閣総理大臣になる黒田清隆。


商工会議所ビルの前にあるのが3つ目の「黒田清輝、桜島の噴火を描く」。

1914年(大正3年)、桜島は壮絶な噴火を起こしました。
画家の黒田清輝(左)は、弟子の山下兼秀(右)を連れて
噴火中の桜島のスケッチのため鹿児島港へと出向きました。

いづろ交差点には、4つ目の「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」が。
1866年、薩長同盟締結直後に京都の寺田屋で襲撃されて負傷した坂本龍馬は、
妻とお龍と共に、小松帯刀や西郷隆盛の勧めで薩摩藩へと湯治にやってきました。
このことは、「日本初の新婚旅行」として知られています。
ちなみに龍馬とお龍の新婚旅行の銅像は、与次郎浜など県内にいくつかあります。


天文館ぴらもーるの中にある、時標5つめ「重豪、薩摩の科学技術の礎を開く」。

島津家第25代当主の島津重豪は、明持館という天文台を設置して薩摩暦を作成。
薩摩藩は独自に天文学や医術などを発展させ、やがて明治維新の原動力となっていきました。
立っているは島津重豪で、座っているのは家臣の水間良実。
ここに天文台が設置されたことから、この繁華街は今でも天文館と呼ばれています。


中央公園に建つ、6つめ「伊地知、吉井、政変について語る」。

1860年に大老井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が起きたことで、幕府の政治も大きく揺れ、
薩摩でも伊地知正治(左)、吉井友実(右)らが幕政の今について議論を重ねました。
西郷隆盛、大久保利通らも入っていたいわゆる精忠組の主要人物たちです。


そして最後は鶴丸城址のはす向かいの県民交流センター前にある、

時標の7つめ「ウィリス、高木に西洋医学を説く」。
江戸駐在の医師ウィリアム・ウィリス(左)は薩摩藩に招かれて赤倉病院を創設し、
イギリス式の医学を薩摩藩にて教え、薩摩の医術を高めました。
そこで学んだ高木兼寛(右)はやがて東京慈恵会医科大学を創設することに。
観光地に銅像はよく建っていますが、どれも単体で建っているものが多く、
ここまで複数の人物が1場面に建っているものを
何カ所かに連続で建てていっているというストーリー仕立てのものは、
日本でもかなり少ない取り組みなのではないでしょうか。
かなり素晴らしい取り組みだなあ、と思いました。

鹿児島市のサイトにも時標が全て紹介されているのですが、

私が撮影した銅像の角度が、ほとんど市のサイトのものと似ていたので、
銅像も画になる角度っていうものがあるんだろうなあ、などと思った次第です。

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