嗚呼壮烈、岩屋城址に行ってきた


太宰府に行った一番の理由は、以前からずっと行きたいと思っていた岩屋城跡に行くため。九州の戦国史を語る上で外せない古戦場の一つです。太宰府天満宮から徒歩ならば1時間、車ならば5分ほど山道を登っていったところにあります。私は車で行ったのですが、駐車場のようなものは特にないので、路肩の駐車帯に停めて、この山道を登っていきます。

道路から徒歩で登るとすぐ、本丸跡に到着。天正十四年(1586)、豊後の大友宗麟に仕えていた名将・高橋紹運は、九州制覇を目指す島津氏の5万の兵力を、わずか763人の城兵と共に迎え撃ち、この地で数日にわたる大激戦を繰り広げました。高橋紹運と763名の城兵は全員討死しましたが、この激戦で島津氏は兵力を大きく失い、九州統一の夢は破れ、その結果、豊臣秀吉に全国統一を許してしまうのです。歴史を大きく動かしたこの激戦の地に、今は「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑が鎮座しています。
岩屋城からの眺め。太宰府方面が一望できます。この日は雨だったので霞んでますけど。本丸は山の中腹にあるのですが、どうして山頂ではなく中腹なのかと思って行ってみると、この眺めを見て納得。眼下の様子が手に取るように分かります。高橋紹運たちの「岩屋城の戦い」の激闘の様子を思い浮かべると、とても胸が熱くなりますね・・・。
岩屋城本丸から道路を挟んでちょっと降りた二の丸跡にある、高橋紹運と763名の勇士たちの墓。岩屋城本丸と「嗚呼葬列岩屋城址」の石碑が向こうに見えるのが分かるでしょうか。城兵全員が玉砕したというのは、日本の戦国史を見ても珍しいことであり、勢力の衰退する大友家を最後まで見捨てることなく大軍に立ち向かった高橋紹運の忠義は後世の我々にも深く感じ入ります。
高橋紹運の長男は、同じく大友家の重臣だった立花道雪の養子となり立花統虎となります。その後に立花宗茂と名を変え、朝鮮出兵でその名を轟かせ、やがて筑後柳川藩の初代藩主となります。名将の血を受け継ぎ、東国無双の本多忠勝と並んで西国無双の武勇と謳われました。九州出身の私としては、高橋紹運や立花宗茂などの九州の戦国時代はこれからもっと注目を集めてほしいです。

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