『厳島戦記』がいよいよラストシーンへ。


Timestageメールマガジン」で実験的に連載させてもらっている歴史物語『厳島戦記』、実験連載と言いながらもう2年以上書いてますが、いよいよクライマックスの「厳島の戦い」も大詰めで、次回からは最後の場面に突入します。バックナンバーは「Timestage blog」でも読めますのでどうぞ。
いろんな歴史本では、1555年に起きた「厳島の戦い」は、「陶晴賢が大内家の主君を殺してその座を奪い、反逆者として毛利元就に滅ぼされ、中国地方は毛利元就のものになった」と、まとめて書かれています。でも、実際には陶晴賢は別に主君の座を奪ったわけではなく、また陶晴賢が死んだからといって大内家が滅んだわけでもありません。
しかし、「厳島の戦い」で中国地方の勢力図が一日にして塗り替えられたというのは過言ではありません。それだけ大きな出来事でした。『厳島戦記』はそれをその一日ではなく、十五年前からさかのぼることで、その一日が生まれた運命を描いてきました。

宮尾城を攻め落とすために二万人の大軍で島に渡った、陶晴賢率いる大内軍。しかし、嵐の中を包ヶ浦へ渡海したわずか三千人の毛利軍は、博奕尾から本陣に奇襲をかけ、大内軍はあっという間に壊滅してしまいました。滝小路で毛利元就の次男・吉川元春に追い詰められた陶晴賢は、大内軍の勇将・弘中隆包に救われ、島外への脱出をはかるために大元浦、大江浦へと逃げ延びていきますが、やがて末路がやってきます。
総大将陶晴賢が敗死して「厳島の戦い」は終わった、と歴史本には書かれてありますが、実際には毛利軍は臨戦態勢を解きませんでした。そう、厳島にはまだ、最後の将・弘中隆包が残っていたからです。
でも大内軍の中でたった一人残った弘中隆包は、大内軍の中でたった一人、厳島への渡海を反対していた武将だったんですね。皮肉な運命です。続きを書くのが辛い…。『厳島戦記』は、この弘中隆包がどうなったかを記して終わります。よろしければぜひ最後までお付き合い下さい。

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