?州市の三義宮に行ってきた。(4)



?州市の三義宮。続いて、后殿の右側にある「五侯殿」に入ります。ここには、蜀の建国を支えた名臣たちが祀られているのですが、五侯殿という名前に反して6人だったりします。


まずは中央の2人を見てみましょう。右側は「武郷侯 諸葛亮」。水魚の交わりとも言うべき劉備からの厚い信任を経て、劉備を大きく支えた功臣・諸葛孔明その人です。蜀では劉備の次ぐらいに挙げられる大人物ですが、ここ三義宮では三兄弟が主役なので、関羽や張飛よりも格下扱いです。そして左側は「左軍師 ?統」。臥龍(伏竜)と呼ばれた諸葛孔明に対して鳳雛と呼ばれ、孔明と共にその知略を大いに振るった天才ですが、劉備の入蜀の際に落鳳坡にて無念の戦死を遂げました。天子から見て左側(こちらから見て右側)が格上なので、諸葛亮のほうが格上になっていますね。


その右側には、右に「常山侯 趙雲」。古くから劉備を助け、長坂の戦いでは幼い劉禅(阿斗)を抱えて100万人の曹操軍の中を駆けた一騎当千の武者です。左は「定亂侯 黄忠」。赤壁の戦いの後に劉備に仕え、齢六十代にして関羽と互角に一騎打ちをし、定軍山の戦いでは魏の猛将・夏侯淵を討ち取る勇猛な老将です。趙雲と黄忠の位置は、三義殿の時とは逆ですが、ここでは中央に誓いほうが格上ということなのでしょう。


左側の二将。右は「鎮西侯 馬超」。涼州の馬一族の出で、父の馬騰を殺害した曹操に潼関の戦いで逆襲し追い詰めるも敵討ちは叶わず、その後張飛と壮絶な一騎打ちをした後に、劉備軍に加わります。関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超の5人は『三国志演義』でも「五虎将軍」と呼ばれる存在ですが、馬超はその中でも最も新参なのです。そしてその右は馬超の従弟「?滄侯 馬岱」。馬超と共に劉備軍に加わりますが、諸葛孔明の信任厚く各地を転戦し、孔明の死後に謀反を起こした猛将・魏延を斬り殺し、国家の内紛を抑えました。ここでは末席ながら、五虎将に並んでいるんですね。


対して后殿の左側にあるのは「少三義殿」。ここには、劉備たち三兄弟の各子供たちが置かれてあります。中央にいるのは、劉備の子、劉禅。阿斗と呼ばれていた幼子の頃に趙雲に抱き抱えられて曹操軍から逃げ延び、劉備の死後は後を継いで第2代皇帝となります。右は関羽の子で、関羽の死後に各地を転戦する関興。左は張飛の子で、関興と義兄弟の契りを結ぶ張苞。残念ながら関興も張苞も若くして亡くなり、劉禅は魏の国の侵攻を防げず降伏。劉備の建国した蜀は2代で滅びました。


ちなみに馬神殿の中には、馬の像が。これは呂布や関羽が乗っていたことでも知られる赤兎馬。この向かいには、劉備が乗った的蘆の像もあります。あとはこの三義宮を訪れた著名人らしき人の写真も並んでます。


入口の案内板にあった、?州市の観光案内図。星印の三義宮の道の向かい側に張飛廟というのがあって、この地図だと近い気がしますが、実際は5kmぐらいは離れているようです。星印の右側に「廊?高速」と書かれた小さな字がありますが、そのあたりは劉備の故郷で、石碑が建っているみたいですよ。地元の人でも少数しか知らないみたいですが、タクシーで行ってみるのもいいんじゃないでしょうか。(私は無理でした)

というわけで、『三国志』ファンには見所たっぷり、『三国志』を知らない人には何が何だかワケが分からない三義宮、いかがでしたでしょうか。次は張飛廟に行ってきますよ。


コメント